初夏の散策~身延山丈六堂~
身延山久遠寺の裏手、奥の院に至る東の参道を30分ほど上って行くと身延山上之山錦之森丈六堂は在ります。起源は、文永11(1274)年5月17日日蓮大聖人が身延山に御入山され或る時身延山中を散策されておられると三本の老松の梢に紫雲棚引き、周囲の紅葉はまるで錦繍(きんしゅう)の帳の様に輝きその中に釈迦尼佛のお姿が現れ同時に千体の分身が花が舞い優雅な音楽が響き渡る中現れそれを観た日蓮大聖人はこの上之山を「錦之森」と御命名に成ったと伝えられているそうです。その時の松は嘉暦2(1327)年に枯れてしまったとの事です。時を経て寛永20(1643)年、身延山26世日暹(ニッセン)上人の代に久遠寺の境内に釈迦尊堂が建立され、その堂内の御尊像は徳川家康の側室で紀伊徳川家の祖頼宣、水戸徳川家の祖頼房の生母で身延山22世日遠上人に深く帰依された養珠院殿妙紹日心尊尼(お万の方)が主と成り丈六釈尊像が寄進され堂内に安置されました。御尊像のお腹籠には、京都の大仏師三宝寺の中正院日護上人の作で岐阜養老公園の妙見堂、神奈川県厚木市の妙伝寺の丈六尊像は一木三体と御題目横帖に書き納められ今に伝わっています。その後、寛文4(1664)年9月25日、身延山28世日奠(ニチデン)上人代に日蓮大聖人が錦之森と名付けたこの地に移り世界平和と一天四海皆帰妙法を祈願しつつ、尼僧衆が御給仕と伝統を護り続けているとの事です。
丈六堂の御尊像、丈六釋尊像と背後には分身の千体の釈迦尼佛像。
御本尊の四方には、御本尊を護る様に持国天・増長天・廣目天・多聞天の四天王像が安置されています。
持国天は、本来インド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教の守護神として取り上げられ仏の住む須弥山の4方向を護る四天王の1人としてして東の方角を護るされている、日本では革製の甲冑を身に着け体色は赤く右手の拳を腰に置き左手に刀を持った唐代の武将風の姿で表されている。この像も足下の邪鬼を踏みつけ刀を持つ左手を振り上げ仏敵を威嚇し右手に拳を作り腰に置いている。
増長天もインドラの配下で、須弥山の南の方角を護るとされ日本では革製の甲冑を身に着け体色は赤く右手は右胸の前で剣を持ち左手は拳にし右腰に置く唐代の武将風の姿で表されている。また中国の民間信仰に於いては青い顔で宝釼を持った姿で描かれるとあるので、この像は中国の像に近い様ですが、持国天同様足下の邪鬼を踏みつけ右手の宝釼を挙げ仏敵を威嚇し左手に拳を作り腰に置いている。
廣目天もインドラの配下で、須弥山の西の方角を護るとされ日本では革製の甲冑を身に着け古くは筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現された。しかしこれは主に天平時代のもので平安以降は右手は三鈷戟を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿で描かれる。とあるがこの像は右手に三鈷戟持ち左手に筆を持って邪鬼の上に静かに立っている様に作られている。
多聞天は毘沙門天と言った方が馴染みがあるのでは!?多聞天もインドラの配下で、須弥山の北の方角を護るとされ日本では革製の甲冑を身に着け左手で宝塔を挙げ左手に宝棒を持った唐の武将の姿で邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多く多聞天を単独で祀る場合安置する場所は毘沙門天と呼ばれています。
入梅間近ですが、梅雨の合間の爽やかに晴れた日に杉の香りが漂う身延のお山を散策するのも好いでしょう。丈六堂の拝観は自由に出来、親切な尼僧さんが堂内の案内もしてくれます。5月の半ば頃までは、丈六堂の周りにはシャガが群生しは、最近はそちらも注目されシャガを観に多くの方々も訪れています。
























































































































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